Last Updated: 2008.09.12

ツォンカパの空思想における否定対象とその分岐点

1.問題の所在

 ツォンカパ(Tsong kha pa Blo bzang grags pa, 1357-1419) の空思想が「否定対象の確認」(dgag bya ngos ‘dzin)を空性の確定作業に先行するとし、それが彼特有の説であることは既によく知られている (1) 。否定対象には、道の否定対象(lam gyi dgag bya)・正理の否定対象(rigs pa’i dgag bya)がある。後者はさらに主体・客体の二種、すなわち誤った分別知とその思念対象(zhen yul)とに分類され(LRCM, 419b1-420a3)、通常ツォンカパが否定対象の中心とするものは、この正理の否定対象の後者の客体にほかならない。

 否定対象の確認作業とは、この正理の否定対象の形象(対象普遍)を「作業仮説上設定」(brtgas pa mtha’ bzung)し、知に顕現させることを意味している。この否定対象の確認作業はまた、インド仏教文献に表れる「それ自身の特質によって成立しているもの」などといった特定の概念や用語のうちの何が否定対象に代入されるのか、という解釈上の問題なのではなく、むしろ、否定基体における否定対象を捉える把握すべてに共通した把握形式が、その思念対象の領域化をどのように行っているのか、という問題にほかならない。ツォンカパはこの思念対象の領域の特定化を「否定対象の境界線/分岐点」(dgag bya’i tshad)などといった一連の術語によって表現している。本稿ではこれらの術語の意味を明らかにし、その必然性と効果を考察し、彼の空思想の基礎理論の解明の一助としたい。

2.否定対象の分岐点とは

 まずこの「否定対象の境界線/分岐点」(dgag bya’i tshad)などといった一連の術語の用例を時系列順に整理しておこう。

 「否定対象の確認」についての最も基本的な枠組みはLRCM(1402)に既に見られるが、そこでツォンカパは否定対象に代入される項目が過大適用(khyab che ba)される場合と過小適用(khyab chung ba)される場合とを挙げ、特に前者を指して「否定されるものの限度を捉えていない場合」(dgag par bya ba’i tshod ma zin par)と表現している(LRCM, 375a4)。同趣旨のものは「否定対象の境界」(dgag bya’i mtshams)とも表現される(LRCM, 495b5)。これらの否定対象が過大適用された場合に、「否定対象の無」たる「否定」が「全く無いもの」とされ、断見に陥るとされている(LRCM, 375a4-5)。これらの「限度」「境界」という語が意味しているものは、否定対象に過大適用された領域を排除する<それ以降否定対象とはならないという最大値>なのであり、この用例は、LRCM以降のNRCM(1405)をはじめとする彼の代表的な著作に共通して見られる。

 DN(1407-8)においては自立派・帰謬派の否定対象の確認の相違点が「否定対象の境界線」(dgag bya’i tshad)と呼ばれているが(89a4)、更にこれと関連するものとして「一体どの時点から実義を考察することになるのかという正理の境界」(rigs pa’i sa mtsams)という「正理知による考察の開始点」という類似概念も導入されている(DN, 104b5-6)。さらにDNに続いて執筆されたRGでは「如何なるもの以降のものが真実成立となるのかという境界」(ci tsam zhig nas bden grub tu ‘gro ba’i sa mtsham)という表現や(RG, 28b5)「如何なるものとして成立しているのならば真実成立となるのかという最小値の分岐点」(ci tsam zhig tu grub na bden grub tu ‘gro ba’i ma mtha’i sa tshigs)という表現がなされている(RG, 29a2)。これらの語に共通し意味されるのは<それ以降否定対象となるという最小値>なのであり、この用例は晩年の著作のLRCN(1415)やGR(1418)でも継承され、GRにおいては「真実の境界線」(bden tshad)で示されることになる。

 これらの一連の語は、LRCMの時点では<それ以降否定対象とはならないという最大値>までの領域の特定化を行っているのに対して、RG以降では<それ以降否定対象となるという最小値>以上の領域の特定化を行っていると言える。特にRGにおける最小値の特定化を示す「分岐点」という語は、DN以降に積極的に論じられた「実義に対する考察の開始点」という発想と組み合わせて展開されることに特徴がある。しかしRGにおけるこの同じ「分岐点」(sa tshig)という語は、LRCMと同趣旨の<最大値>を示すものとしてRNSG(1411)で使用されるているので(44b1)、領域の特定化を行うこれらの語が「当初最大値以下のものを表していたが、RG以降になって最小値以上のものを表すものへと変化した」とは断定することはできない。最大値以下のものを分岐するのか、最小値以上のものを分岐するのか、ということはその分岐点によって特定化されるもののいずれに視点を置くのか、という問題に過ぎない。それ故に、これらの語によって「否定対象とそれ以外のものとが分岐する分岐点そのもの」が意味されていたと考えるのが妥当な結論であろう。

3.否定対象の分岐点の必然性

 それでは否定対象の確認作業において何故このような否定対象の分岐点を設定しなければならないのか、その必然性を検証してみたい。

 そもそもツォンカパにとって正理の否定対象のうち客体とは、畢竟無でなければならない。何故ならば、一切法の任意の項目が有法(否定基体)に代入可能な空性の命題の構造上、存在している否定対象は否定出来ないからである。これは空性を記述する命題そのものが任意の法である空の基体を否定基体とすることから生じる構造上の特性といえる。

 否定対象それ自体は畢竟無であるにも関わらず、空性を理解していない者、すなわち否定対象の確認をしていない者にとって、否定対象たる倶生起の法我執の思念対象と「単なる有」との両者は無区別な混合状態でのみ顕現している(LRCM, 453a4-5)。それゆえに、この混合状態より、元来存在しないはずである否定対象を「作業仮説上設定」(brtgas pa mtha’ bzung)し、混合状態から倶生起の法我執によって捉えられている領域部分のみを抽出化し、差異化する作業が必要になるのである。この差異化作業こそが否定対象の分岐点の設置作業にほかならず、その作業を経ないで否定対象の対象普遍を知に顕現させて否定対象を確認するなどできないのである。すなわち、否定対象とそれ以外のものとを分ける分岐点が設定された時点ではじめて、否定対象の形象を単なる有と混合した顕現状態から分離し、それ単体で顕現させることができるようになるのであり、否定対象の分岐点を設定するというこの作業は否定対象の確認作業にとって不可欠なものなのである。

4.否定対象の分岐点の設定効果について

 最後に、ツォンカパが、否定対象の最大値か最小値かという分岐点を設定することによってもたらされた効果を確認しておこう。

 まず否定対象の<最大値>を設定することにより、否定対象の確認作業自体に、彼の重視した「無自性なものにおいて、輪廻から涅槃に至るまでの縁起する諸存在全ての設定が成り立つ」という「中観不共の勝法」 (2) を成立させる機能を持たせることが可能となる。更にその<最小値>を設定することで、如何なる空の基体に対しても、同一の空性を記述する命題の帰結作業に付随する、正理知と真実把握との把握形式の対立化などのすべての空性命題に共通する諸概念が、均質に適用されることが可能となる。その結果、いかなる空の基体であっても、実義を考察する正理知は、絶対否定の空性以外にいかなるものも獲得しないし、成立させないという原理を構築できるようになる。これは特にチャパ(1109–1169)の説とされる (3) 「真実無は真実成立である」といった入れ子型命題における例外的帰結がもたらされることを防止する。前掲のRGの引用の前後の箇所でも、正理知の機能と関連した「真実無は真実成立である」といった入れ子型命題にも一般的な空思想と同一の論理が適用されることが示される。

 さらに否定対象の領域の最小値を設定することは、自立派の見解と帰謬派の見解とに異なる否定対象に関する限定語の相違点の問題を、両派が一体どの時点から否定対象の分岐点を考察しているとするのか、という実義に対する考察の開始点の問題へと還元化することを可能にしている。その結果、さまざまな学派における否定対象に対する見解の相違点は、その学派が倶生起の法我執としてどのようなものを想定するのか、ということに終結し、より否定対象の分岐点が微細な点にまで及ぶことが、各学派の空性理解の精細度を左右し、各学派の価値判断の問題もこの否定対象を確認する知の精細度の問題へ還元可能となる。

 これら以外にも多くの効果がもたらされるが、その詳細をここで論じ尽くせるものではない。しかし少なくとも、「否定対象の確認が空性理解に先行とする」として出発したツォンカパの空思想は、さらにその準備作業として「否定対象の分岐点」というものを作業仮説的に設定することで、彼の空思想それ自体も極めて単純で明晰なものへとより深化したと言えるであろう。

略号

LRCM: Lam rim chen mo
NRCM: sNgags rim chen mo; DN: Drang nges legs bshad snying po
RG: rTsa she Tik chen rigs pa’i rgya mtsho
RNSG: Rim lnga gsal sgron
LRCN: Lam rim chung ngu
GR: dBu ma dgongs pa rab gsal.

以上 Zhol ed..

  1. (1)松本史朗『チベット仏教哲学』大蔵出版、1997年。【↑】
  2. (2) 福田洋一「ツォンカパにおける縁起と空の存在論 」オンライン版 http://tibet.que.ne.jp/【↑】
  3. (3)Cf. sTong thun chen mo(Sermay ed.), 132【↑】

キーワード

ツォンカパ, 否定対象の境界線, dgag bya’i tshad, sa tshigs, bden tshad

本研究は平成15年度科学研究費助成金(特別研究員奨励費)の成果の一部である。