ツォンカパの否定の定義とその思想的展開

「否定」(dgag pa, pratiṣedha)と「肯定」(sgrub pa, vidhi)の問題が単なる表現上の差異から、思想内容の差異へと昇華される時、否定や肯定は認識されるべき対象(shes bya)それ自身が如何なる存在者なのかという問題へと昇華される。梶山雄一博士が絶対否定(med dgag, prasajyapratiṣedha)と相対否定(ma yin dgag, paryudāsa)という二種の否定の問題や、否定排除(rnam bcad,vyavacchedha)と肯定排除(yong gcod, paricchedha)という二種の否定作業について注目して(1)以来、インドの文法学・論理学などにおいてこれは一つの思想言語の分析作業に無視できない問題となっている。

チベット仏教の巨匠ツォンカパ・ロサンタクパ(Tsong kha pa Blo bzang grags pa 1357-1419)が「否定対象を排除しただけの絶対否定が空性であり、それだけが勝義諦である」 (2) と主張する時、この否定・肯定の問題は彼の空思想の理論的前提となっている。しかしながら、チベット仏教における否定と肯定についての言説は、我々が日常使っている言説とは全く質を異にしているのである。我々には「‥‥を否定する」「‥‥を肯定する」という命題はあっても、ツォンカパのような「‥‥は否定である」「‥‥は肯定である」といった命題はそれほど明確に意識することはできない。ましてやチベット仏教で具体例として挙げられる「壺は肯定である」「無量寿仏は相対否定である」という命題は、少なくとも日本人にとって文法的に誤りなのである。

ツォンカパの否定・肯定に関する議論は、空思想と密接に関係していることは確かである。しかし「否定とは何か」という否定の定義の問題と「空性は否定である」という問題とはレヴェルの異なる問題であり、空性が否定を規定しているわけでない。本稿ではツォンカパの否定の定義とその認識過程に焦点をあて、18世紀のゲルク派の傑僧ジャムヤンシェーパ・ガワンツォンドゥー(Kun mkhyen ‘Jam dbyang bzhad pa I Ngag dbang brtson ‘grus, 1648-1772)の『量評釈考究』rNam ‘grel mtha’ dpyodを援用しながら、彼の見解を再構成してみたいと思う。

1. 否定であること

ツォンカパやチベット仏教における「否定」というものを考える時、我々日本人にとって最も重要なことは「否定とは‥‥である」という命題と「‥‥は否定である」という命題とを明確に区別することに尽きる。前者における否定は、主語要素になっており、後者における否定は述語要素となっている。この主語要素である否定と述語要素である否定とは本質的な差異が見られる。チベット語で表現される「dgag pa」「sgrub pa」とは、「xはdgag paである」「xはsrgub paである」と表現されるそのxのことを指しているのであり、「‥‥を否定する」「‥‥を肯定する」というような動詞としての使用されているその命題を指しているのではない。たとえば、「虚空」(nam mkha’)は「否定」であり、「婆羅門ではない」というのは「否定」であるが、それは「虚空は否定である。何故ならば‥‥だから。」「婆羅門ではない、は否定である。何故ならば‥‥だから」というように「否定である」と述定される主語となっているからにほかならない。同様に「つぼ(bum pa)は肯定である。何故ならば‥‥だから」と述定される主語「つぼ」は肯定である、と言われるのである。

否定の定義ないしは肯定の定義は、何らかの対象を否定ないしは肯定であると述定する場合の、その述定の論拠となる、特質ないしは条件を示している。この場合「否定・肯定」という言説はその特質を具えている主題に対する述定レヴェルで使用される。その一方でこの「否定である」と述定される名辞を使用した論証式は名辞レヴェルの「否定・肯定」を肯定、論証するものなのである。たとえば「東の虚空は虚空である。何故ならば‥‥だから。」という言明は「東の虚空は虚空(否定)であると論証/肯定する言明」であり、「壺は無自性である」という場合には「壺は無自性(絶対否定)であると肯定/論証する言明」なのである。これらの命題は「否定を肯定する」(dgag pa sgrub pa)命題であるとされるが、その場合の否定とは名辞レヴェルであり、この言明は、ある主題が、「xはdgag paである」と言われるそのxであることを肯定する/論証する(sgrub pa)ということを意味している。したがってこの「肯定する」(sgrub pa)という動詞部分は、名辞レヴェルの「否定」の特質を左右するものではない。これは絶対否定である「無自性」(rang bzhin med pa)を肯定/論証(sgrub pa)する場合にも同様であり、無自性を論証するということは「絶対否定を肯定する」(med dgag sgrub pa)と言うのと同じであるが、その場合の「無自性」とは「無自性は絶対否定である」という命題の主語にあたるものであり、その限りにおいて、述定の条件として絶対否定の特質たる「他の法を肯定しない」(chos gzhan mi sgrub pa)という述語があてはまるが、この「‥‥肯定しない」(mi sgrub pa)という部分は「無自性を肯定する、論証する(sgrub pa)」という場合の「肯定」とは全く異なるレヴェルで表現されているのである。

ツォンカパの否定に関する記述のなかで、特にこのように一つの命題に名辞レヴェルの否定と肯定が入れ子構造になり、更にそれに論証する・肯定するという動詞要素が付加されているものは、これまであまり正しく解釈されていなかったと言える (3)。我々がツォンカパの否定の定義を検討する際に、まずこのような主語要素・述語要素として使われるひとつの単語の名辞レヴェルと述定レヴェルの差異(4)について注意を払う必要があると思われる。これらのことを念頭においた上で、ツォンカパは否定をどのように定義しているのかを見てみよう。

2. 否定の定義

ツォンカパの否定に関する定義には次の四種類のものが見られる。

[1]否定の定義は、[定義A]法であり、かつそれ自身の対象普遍の顕現が、それ自身の否定対象の対象普遍の顕現に依存しているものである。肯定の定義は法であり、かつ、それ自身の対象普遍の顕現が、それ自身の否定対象の対象普遍の顕現に依存していないものである(rJe’i yid kyi mun sel, 9a5-6)

[2]否定とは、[定義B]発話した際に、〔その〕語句が伴っているもの(thigs gis zin pa 否定辞)において否定対象を排除しているもの (5) か、もしくは[定義C]その(否定の)形象が知に顕現する時に、否定対象が排除されたものの形象を伴い直接現れているものから理解されるものであり、前者はたとえば無我であり、後者はたとえば法性である。これには〔否定の〕語を伴って否定対象が排除されていないけれども、その対象が現れる時には戯論が排除された形象を伴って現れるものがあるのである。(Drang nges, 108b1-3)

[3]したがって、一切の否定はまたそれ自身ではないものを否定したことによって事物において否定対象が排除されているだけでは不充分なのであって、[定義B]それ自身を述べる言葉によって排除されていることと、[定義C]それ自身を理解する知に直接否定対象が排除された形象を伴って現れるものかのいずれかが必要となるのである。(Drang nges, 109a2-3)

[4]普遍として否定とは、[定義D]知によって否定対象を直接排除した後に理解されるものである。しかるに、それ自身ではないものを排除したものと同様、単に事物上で否定対象を排除しただけのものが否定なのではなく、法性や勝義真実のように、言葉によって否定対象を直接排除したものではないけれども、その対象が知に現れてくる時に、戯論を排除した形象をもったものとして現れてくるものなどが「否定」なのである。(rTsa she Tik chen, 23b5-6=dGongs pa rab gsal, 82a2-4)

ここでは四つの異なる定義が見られる。それらを整理すると次のようになる。

[定義A] 法であり、その対象普遍の顕現が、その否定対象の対象普遍の顕現に依存しているもの
[定義B] 否定辞において否定対象を排除し理解されるもの
[定義C] その否定の形象が知に顕現する時に、否定対象が排除されたものの形象を伴って直接現れてから理解されるもの
[定義D] 知によって否定対象を直接排除した後に理解されるもの

[定義A]はrJe’i yid kyi mun sel以外には出てこないものであるが、内容的には[定義C]と一致している。この定義がチャパ・チューキセンゲ(Phywa pa/Cha ba Chos kyi seng nge 1109-1169)の定義を踏襲したものであることは、チャパの次のような言明から知ることができる。

[5]「効果的作用を欠いていること」や「原因によって生じさせられていることが無いこと」や「滅することが無いこと」など、否定対象の対象普遍が現れてくることに依存して、それとは逆の対象普遍が現れ、思いこむことが出来るもの(dgag bya’i don spyi shar ba la ltos nas de las bzlog pa’i don spyi shar ste zhen du rung ba)、それが否定の法(dgag pa’i chos)と言われるのである。(Shar gsum stong thun, 87)

彼の弟子、ツァンナクパ・ツォンドゥーセンゲ(gTsang nag pa brTson ‘grus seng nge, 12c)は次のように述べている。

[6]法であり、かつ否定対象の普遍の顕れ(dgag bya’i spyi ‘char ba)に依存しないで、独立して確定可能なもの(rang dbang du nges su rung ba)が肯定である。たとえば「顕現」(snang ba)がそれである。肯定を単に否定した逆のものとして存続しているもの(sgrub pa bkag ldog tsam du gnas pa)は否定である。たとえば否定である「空性」がそれである。(rNam nges gTsang Tik,18b2-3)

これらの記述からも、ツォンカパの否定の[定義A]は明らかに所謂チャパ流(cha lugs) (6) を採用していることが分かるであろう。内容的には[定義C]に関してもこの[定義A]の派生形であると見做しうるし、チャパの定義を一歩推し進めたものであると言える。

チャパ流(cha lugs)の否定の定義としては、[定義A]の形以外に「知による否定排除において理解されるもの」(blos rnam bcad du rtogs par bya ba)というものが今日伝わっている。この定義はツォンカパの弟子である、ゲンドゥンドゥプ(rGyal ba dGe ‘dun grub 1391-1474)のRigs rgyanやジャムヤンシェーパのrNam ‘grel mtha’ dpyodより得られる(7)。そのいずれもが、チャパとその弟子であるツァンナクパおよびデンバクパ・マウェーセンゲ(Dan bag pa sMra ba’i seng nge)などの「知による否定排除において理解されるもの」(blos rnam bcad du rtogs par bya ba)という定義と「相対否定は否定ではない」とする見解とが両立しないと批判する。(Rigs rgyan, 349; rNam ‘grel mtha’ dpyod, 271a6-273b3)しかしながら、その批判の過程において「知による否定排除において理解されるもの」(blos rnam bcad du rtogs par bya ba)という定義はツォンカパの[定義D]の形に置き換えて議論され、彼らがこのチャパ流の定義とツォンカパの[定義D]とをほぼ同一内容であると見做していることが伺える。(Rigs rgyan, 349; rNam ‘grel mtha’ dpyod, 271a6-272a3)チャパ流の否定に関する見解とツォンカパの見解とは異なる点は多くある(8) が、すくなくともツォンカパの[定義A]は完全にチャパ流の定義に一致し、[定義C][定義D]についてもチャパ流と言われるものを意識して形成されたものではないかと思われる。

[定義D]は、rTsa she Tik chendGongs pa rab gsalで繰り返し説かれていることからも分かるように、ツォンカパの最終的な否定の定義であると言える。[定義C][定義D]はほぼ同じ内容を述べており、[定義C]を言い換えた形が[定義D]であると言える。後代のゲルク派の論師たちは、この[定義D]を否定の定義であるとして採用しているものが多い。ジャムヤンシェーパもrTsa she Tik chenの[定義D]を自説で採用し次のように纏めている。

[7]それ自身を直接理解する知(dngos su rtogs pa’i blos)によって、それ自身の否定対象を直接排除した後に理解されるもの、これが否定の定義であるrTsa she Tik chen通りである。否定(dgag pa)・排除(sel ba)・孤立(ldog pa)は同義である。(rNam ‘grel mtha’ dpyod, 281b6-282a1)

ジャムヤンシェーパによれば「直接理解」とは「ある知にその客体の形象が顕現することによる理解」(9)であり、[定義A]で説かれる対象普遍(don spyi)は分別知に現れる形象(rnam pa)であるから、この[定義D]は[定義A]に含意されている分別知だけを視野に入れたものではなく、瑜伽行現量(rnal ‘byor mngon sum)などをも視野に入れて定義したものであると言える。このことを明確に語るものとして、ジャムヤンシェーパが否定の目的(dgag pa’i dgos pa)として掲げるもの挙げることができるであろう。

[8]経量部における、それら〔絶対否定・相対否定〕二つを確定することについて、主題。目的が有る。他者のための聞所成の無我を理解する比量と自らのための思所成の無我を証得する比量との二つの比量の相続を修習することにより修習された凡夫の相続の修所成の智慧の計量対象であれば、必ず絶対否定なのであって、相対否定・肯定のいづれでもないはずである、ということを知らしめるためであるからである。唯識派における、その二つを確定することについて、主題。目的が有る。法無我を確定する聞所成〔の比量〕と思所成の〔比量との〕二つの比量の相続を修習することより〔生じる〕凡夫の法無我を理解する〔二つの〕修所成と、聖者の法無我を証得する三昧智との〔合計〕三つの修所成の〔智慧の〕所量であれば、絶対否定でなければならないのであって、相対否定と肯定とのいずれでもないはずである、ということを知らしめるためであるからである。(rNam ‘grel mtha’ dpyod, 286a4-b2)

比量の場合には、対象普遍のみを通じて理解する(don spyi tsam gyis rtogs pa)ので[定義A]で充分であるが、三昧智という現量の場合には対象普遍を媒介とすることなく、否定である対象そのものを理解するので、[定義A]では不充分であり、[定義C][定義D]へと否定の定義を展開させねばならない。おそらくツォンカパもそのようなことを意識して、[定義D]を最終的な結論としたのではないかと思われる。

[定義B][定義C]についてはDrang ngesではどちらかを充たせば否定であるとされているが、[定義B]のみでは不充分であり、否定辞があるかないかは、否定であることの充分条件であるが、必要条件ではない、と後代のジャムヤンシェーパは説明する。ジャムヤンシェーパは最終的に採用される[定義D]を視野に入れた上で、記述[3]を会通して次のように述べている。

[8]〔この記述[3]は〕否定の大部分大多数が[定義B]語句によって〔否定対象を〕排除していることから、言葉と分別の両方によって否定対象を排除しているが、法性のように[定義C]語句によって排除していないその両者(相対否定と絶対否定)はまたそれ自身を直接理解する知において否定対象を排除した形象として現れるので、言葉と分別のいずれかから否定であるとされる、という意味である。(rNam ‘grel mtha’ dpyod, 78b4-5)

このジャムヤンシェーパの会通は否定辞を伴う[定義B]は言葉と分別との両方によって否定対象の排除ががなされる場合であり、否定辞がない[定義C]は分別によって否定対象の排除がなされるという意味である。またこの否定辞を伴っているという[定義B]が否定であることの充分条件であるが、必要条件ではないことは、先程の記述[4]の末尾「法性や勝義真実のように、言葉によって否定対象を直接排除したものではないけれども、その対象が知に現れてくる時に、戯論を排除した形象をもったものとして現れてくるものなどが否定なのである」という記述からも明らかであろう。

以上ツォンカパの否定に関する四つの定義を見てきたが、ツォンカパの否定の定義をまとめておきたい。まずツォンカパはチャパ流の[定義A]を採用し、そこから分別知以外の無分別知による否定の認識を考慮した[定義C]を導きだし、最終的にはよりシンプルな[定義D]の「知によって否定対象を直接排除した後に理解されるもの」という定義を結論としたと言える。そして[定義B]の否定辞による言語表現はあるもの(x)が「否定である」と言われるための充分条件であるが、必要条件ではないとする点に特徴が見られる。

それでは[定義D]によって規定される否定、その逆の命題によって規定される肯定、これらが対象の分類に当てはめて考えられ、「壺は肯定である」「虚空は否定である」という命題は何故可能になるのか。それについて若干考察してみたい。

3. 否定認識のプロセスについて

「壺は肯定である」「虚空は否定である」という命題を理解するためには、先の否定の定義にしたがって、否定である対象(x)がどのように認識されるのか、という認識のプロセスを考えることによって理解することができる。まずは通常の我々の否定に対する認識である分別知が否定を認識するプロセスから考えてみたい。このことについては、[定義C][定義D]を検討することで明らかになる。

[定義C] その否定の形象が知に顕現する時に、否定対象が排除されたものの形象を伴って直接現れてから理解されるもの
[定義D] 知によって否定対象を直接排除した後に理解されるもの

分別知の否定認識に関する時間的順序にしたがって考察するのならば、まずある否定である対象(x)を認識する時、分別知は否定対象~(x)の対象普遍を知に顕現させなければならない。これをツォンカパの用語でいえば「否定対象の確認」(dgag bya ngos ‘dzin)という。否定認識には必ずこの作業が必要であり、否定対象の確認なくして否定を実行することができない、というのがツォンカパやゲルク派の否定認識の原則である。そしてこの段階を否定認識の第一層とすることができる。

次に否定対象を直接排除する段階であるが、まず否定対象を排除するといっても、斧で壺を壊すように排除するのではなく、「基体(x)は否定対象(y)である/が有る」と捉える知と把握の形式が直接対立している(’dzin stang dngos su ‘gal ba)「基体(x)は否定対象(y)ではない/が無い」と捉える知によって、実行される (10) 。この二つの知は前者は増益(sgro ‘dogs)と呼ばれ、後者は確定(nges pa)と呼ばれる。二つの知は把握の形式が直接対立しているので、同時に働くことはないので、後者は否定対象に対する増益を排除する能力があると言われる。その際に「否定基体(x)は否定対象(y)である/が有る」というものが否定排除(rnam bcad)され、「否定基体(x)は否定対象(y)ではない/が無い」肯定排除(yongs gcod) (11) される。換言するのならば、否定対象を排除するとは、否定対象を把握する増益を排除することにほかならない、そしてその実行段階を否定認識の第二層とすることができる。

そしてこの第二層と同時に、[定義C]で言われる「その否定の形象が知に顕現する」。この時点で分別知は否定である対象(x)の形象を顕現させて理解しているのである。[定義D]でいえば「知によって…理解される」という部分がそれに対応している。ここで否定の認識は完結する。これを否定認識の第三層とすることができる。
以上が何らかの否定である対象(x)が分別知によって認識される三つのプロセスである。筆者は意識的に「現れてから理解される」「排除した後に理解される」という時間的な差異を表現した和訳をしたが、実はこの第二層と第三層とは同一刹那において行われる。しかし、後述するようにこの第二層と第三層とを区別することにより、相対否定・絶対否定の差異が明確になるので、便宜上このように訳しておいたが、それらが同一刹那であることに注意する必要がある。また分別知ではなく、聖者の三昧智(’phags pa’i mnyam bzhag ye shes)の場合には、否定認識の第一層はなく、現量の確定能力が直接否定対象を排除して否定を理解するので、必ずしもこの三層構造が常時必要となるという訳ではない。

一般的に「壺は肯定である」「虚空は否定である」というように、客体(yul)・所知(shes bya)・存在者(yod pa)を否定・肯定に分類することは、ある対象がこのようなプロセスを経なければ理解され得ないものなのか、どうかという観点から分類されているのである。そしてこうしたプロセスを経なければ理解され得ない対象(x)は「否定である」と述定され、そうしたプロセスを経なくとも理解される対象(x)は「肯定である」と述定される。たとえば「壺」はそのようなプロセスを経なくとも理解可能であるので、「肯定である」とされ、虚空はその否定対象である「接触する妨げ」を排除して理解するというプロセスを経なければ理解出来ないので、「否定である」と述べられるのである。
以上、否定である対象(x)が分別知によって理解される時の認識の三層構造を纏めておけば次のようになる。

  • (i)否定対象の対象普遍の知への顕現
  • (ii) 把握形式が直接対立する知による否定対象の排除
  • (iii) 知による否定の理解

4.相対否定・絶対否定

以上ツォンカパの否定に関する定義とその認識プロセスが明らかになったと思われるので、否定の分類、およびそのなかでも重要となる絶対否定と相対否定の問題について考えてみたい。ツォンカパは二種類の否定についてそれぞれ定義して次のように述べている。

[9]そのうち絶対否定とは意識によって否定対象を直接排除した後で、他の法を投射しない、もしくは肯定しないものである。(中略)相対否定とは、意識によって否定対象を排除した後で、他の法を投射する、もしくは肯定するものである。(中略)したがって、言葉の指示する対象(sgra’i bstan bya)や意識の客体(blo’i yul du)において、他の法を代りに投射しているならば、また絶対否定ではないのである。(rTsa she tik chen 23b6-24b4) (12)

ここでは”‘phen pa”を「投射する」と訳したが、ツォンカパは「ここで肯定するかしないかというのは、投射するしないというのと同義である」(Drang nges,109a1)と述べている。もともとは「弓を射る」とか「玉を投げ付ける」「玉を放る」というように使われる用語である。他の法を「投射する」「投げ付ける」「放り出す」とは一体如何なることなのか。これまでの議論を踏まえると我々は次のように考えることができる。

否定である、ある対象(x)を理解するためには、先程から見てきたように、三層の構造を経なければならないが、その第三層において対象(x)を理解する知に(x)とは異なる他の法(y)は「投げつけられる、放りだされる」場合には相対否定であり、そのような何らかの他の法が「投げつけられない、放りだされない」場合には絶対否定であるとされるのである。言い換えるのらば「相対否定であるもの(x)」はそれを理解する時に、何らかの他の法である「相対否定であるもの(y)」もしくは「肯定であるもの(z)」の形象が知の側に投げつけられているのであり、一方、「絶対否定であるもの(x)」は、その後で理解されているものは「絶対否定であるもの(x)」の形象のままであり、そこには何らの変化も起こっていないという特徴があるのである。

要するに「否定」の認識における第二層から第三層へと移行するプロセスで否定である対象(x)の形象以外の他の形象(y)が知に現れてくるのかどうかということから、「絶対否定」「相対否定」という区別をすることができる。そしてその理解の結果に差異があることにより、否定である対象(x)それ自身であるものにも区別が生じ、一方を絶対否定と言い、もう一方を相対否定というのである。そして「否定である」と言われる対象(x)は否定の三層構造のプロセスを経て理解されなくとも、最初から「否定」なのでであり、このことは「絶対否定であるもの」(x)「相対否定であるもの」(x)についても同様で、そのような認識のプロセスを経る以前から「絶対否定」「相対否定」なのである。

このような他の法を投射する投射しないという相対否定・絶対否定の差異は、チャパ・チューキセンゲの絶対否定と相対否定に関する記述にもみられる (13) が、ツォンカパ自身はそれを記述[9]末尾の下線部のように「知の客体において」相対立する異なった他の形象が投射されているのかどうか、という点に差異を見いだしており、これがツォンカパの絶対否定・相対否定の定義の特徴であるとすることができる。ツォンカパが二種類の否定についてチャパとは意見を異にしていることは次の記述から読み取れる。

[10]ある人は「肯定である基体と組みになっているならば(gzhi sgrub pa dang tshogs na)、絶対否定ではない」と述べるが、これは不適切である。「婆羅門」が肯定(sgrub pa)であることは「婆羅門は酒を飲まない」は「否定対象を排除しただけのもの」であることを否定しないからである。たとえば「現前態である声」であるものが、「隠匿態たる声無常」を否定しないのと同様である。
また他の人々が「基体と組みになっているのならば、他の法を導き出している(相対否定である)」というのも不適切である。何故ならば、たとえば「婆羅門」は他の法を投射するのかしないのかを検証する基体なのであって「投射されている他の法」ではないからである。(rTsa she Tik chen, 24b4-6)

この「肯定である基体と組み合わさっているなら(gzhi sgrub pa dang tshogs na)、絶対否定ではない」(Shar gsum stong thun, 87; rNam nges gTsang Tik, 18b3)という見解がチャパの見解であることは、チャパ自身の次のような言明から推察することができる。

[11]肯定のみのもの(sgub pa ‘ba’ zhig pa)と否定・肯定とが組み合わさったもの(tshogs pa)は相対否定であり、否定のみのもの(dgag pa ‘ba’ zhig pa)が絶対否定である。(Shar gsum stong thun, 87)
[12]それら(否定と肯定と)が組み合わさったものの孤立(ldog pa)は否定されたものの肯定(bkag pa’i sgrub pa)、つまり相対否定であると言われ、たとえば「虚偽」がそうである。(rNam nges gTsang Tik, 18b3)

記述[10]の第二説については、これらのチャパの説を展開したものであることは明白であるので、問題はない。

以上見てきたようにツォンカパの相対否定と絶対否定との差異化は、その対象が理解される時に、否定認識の第二層から第三層にかけて起こる、知に投射されるその対象以外の何らかの相対する異なった形象があるのか、ないのか(14)ということに尽きると思われる。それは否定・肯定を対象認識の過程によって分類したものを完全に踏襲している理論であって、言語表現や論証形式の問題ではない。しかしながら、ツォンカパが挙げるその否定・肯定、相対否定・絶対否定の例が言語表現や命題とともに論じられるが故に、これまで多くの誤解 (15) があったのではないかと思われてならない。

5. 結 論

以上ツォンカパの否定の定義とその思想的展開について考察してきた。ツォンカパは論理学でも中観派でも、また自立派も帰謬派もこうした「否定」についての考え方には差異がないとしている (16)。つまりこれらの否定についての理論はツォンカパのすべての空思想に共通する理論的前提にほかならない。最後に本稿の結論をまとめておきたい。
(1)ツォンカパにとって、否定は「知によって否定対象を直接排除した後に理解されなければならないもの」と定義され、肯定はその必要がないものを示している。この場合に、否定辞の存在は必要ないことが特徴であり、否定・肯定とは、「(x)は否定である」「(x)は肯定である」と呼ばれるその対象(x)がどのように認識されるのか、というそのプロセスによって分類される。
(2)ツォンカパの否定の定義に従えば、否定である対象(x)を認識する時、(i)否定対象の対象普遍の顕現・(ii)把握形式が直接対立している知による否定対象の排除・(iii)知によるその対象(x)が理解される、という三層の構造が見られる。
(3)ツォンカパの考える相対否定・絶対否定とは、この三層構造のうち第二層から第三層にかけてその対象を理解する知に他の形象を投射するのかしないのかということによって区別されている。
(4)ツォンカパの否定に関する定義や議論の大部分はチャパ・チューキセンゲの見解を大幅に意識したものであり、それを一部改正することにより、チャパの理論と決別することとなった。
本稿では考察できなかった「他者の排除」(gzhan sel)の問題や相対否定の様々な分類の問題については稿を改めて論じてみたい。

略号と文献

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注記

(1) Kajiyama, Yuichi. “On Three Types of Affirmation and Two Types of Negation in Buddhist Philosophy.” Wiener Zeitshrift
fur die Kunde Sundasiens
, 17(1973): 161-175.【↑】

(2) Drang nges, 47a1-2: 否定対象についての異なる限定が有ること以外には「否定基体たる縁起に於いて自己の否定対象たる我を否定排除し ただけのもの」を指して「勝義真実である」と設定することは、両轍(唯識派と中観派の両者)とも一致しているので、それとは他の勝義を設定するのは正しくない。【↑】

(3) たとえば、松本(1997, 322)では「‥‥その最も重要な点は、あるものx(ex.”自性”)〔否定対象〕」の”絶対否 定”を非x(ex. “無自性”)の肯定(sgurb pa, sādhana, vidhi)であり、非x〔A〕とは異なったものの肯定でない、とした点に認められる。”絶対否定”を「非xの肯定」、つまり「否定対象の否定の肯定」と解するツォンカパの理解は、中観思想史上全く前例のないものであり、少なくともバーヴィヴェーカの”prasajya-pratiṣedha”に対する解釈としては、完全な誤解、あるいは、意図的な曲解であると言わなければならない。」と説明しているが、これはこの「否定を肯定する/証明する」という命題の誤った解釈に基づくものである。四津谷(1998, 66)で「純粋否定=否定対象の否定以外のものを証明しないもの→否定対象の否定を証明するもの」と述べているのも同じ誤りである。絶対否定と相対否定との差異については本稿4を参照されたい。【↑】

(4) チベットの論理学における文法については、福田洋一「ゲルク派論理学の実在論的解釈について」『東洋の思想と宗教』第17号(2001年)、小野 田俊蔵「チベット僧院での仏教研究法」『日本佛教學会年報』第66号(2001年)で詳しく考察される。【↑】

(5) 四津谷(1998, 61-62, n.5)では「tshig gis zin par」を「ことばによって表現された時は、語句によって唯」と訳しているが、これは単なる誤 訳である。「tshig gis zin par」という表現は、「その語句を発話した際に否定である語句そのものに含まれている否定辞の箇所において」という意味である。四津谷(1998)では[定義B]と[定義C]とを挙げ、[定義C]のみをmed dgag とma yin dgag に分類する見解を提示しているが、両者は選言辞(’ang sgra)によって結びつけられていることから考えても、この解釈は正しいものとは思われないし、それを支持するゲルク派の論師たちの記述は見当たらない。「tshig gis zin par」については、rNam ‘grel mtha dpyod, 278a1-b3を参照されたい。【↑】

(6) ツォンカパやゲルク派がチャパ流の論理学を継承していることについては、 Kuijp (1978,1983); Onoda (1992); Dreyfus(1997); Tillemans( 1999)に詳しく考察される。【↑】

(7) ゲンドゥンドゥプとジャムヤンシェーパの間では、無常(mi rtag pa)を相対否定であると見做すのかどうかで決定的な差異が見られる。Cf.
Rigs rgyan
, 349; Nam ‘grel mtha’ dpyod, 271b1-272a3.【↑】

(8) この定義と対になっていると思われる「知による肯定排除において理解されるもの」(blos yongs gcod du rtogs par bya ba)という肯定の定義 はゲルク派においては採用されない。Cf. Rigs rgyan, 350.【↑】

(9) Blo rig, 3b5: blo de la yul de’i rnam pa shar ba’i sgo nas rtogs pa.【↑】

(10) この把握形式の対立については、拙稿「ツォンカパの空思想における空の形式について」『日本西蔵学会会報』第47号(2002年)を参照されたい 。【↑】

(11) ツォンカパによれば、肯定排除(yong gcod)は肯定(sgrub pa)ではない。Cf. rTsa she Tik chen, 26a4-5:「肯定排除はすべて肯定で ある」という主張は肯定排除の意味を理解していない言明である。この基体はこの法ではない、この基体にこの法は無い、と肯定排除せねばならない必要性は、すべての認識対象に有るからであり、知によって否定対象を直接排除してから確定されなければならないからである。【↑】

(12) dGongs pa rab gsal, 82a4-6およびDrang nges, 108b3-109a1は同趣旨。【↑】

(13) Cf. Shar gsum ston thun, 85-86.【↑】

(14) このようなことからも少なくともツォンカパの思想においては、「med dgag」「ma yin dgag」は絶対否定・相対否定と訳すのが適切ではないか と思われる。【↑】

(15) 松本(1997)や四津谷(1998)のような命題の入れ子構造についての誤解は言うまでもなく、Klein(1986)に代表されるように相対否定を” affirming negative”と訳したり、”‘phen pa”の訳語として”suggest”や”imply”を充てているのもツォンカパの対象としての否定を正確に把握するものであるとは思われない。ツォンカパをはじめとしチベット人の論理学に対するアプローチは西洋的な哲学的思考法や言語哲学的な抽象的なものではなく、むしろより具体的な実際的な対象に対するアプローチではないかと思われる。チベット人たちが使用する「rigs lam」(正理の道)という論理学を表現する言葉は、対象の側に存在する道理(rigs)を渡りあるく道のように思われてならない。筆者の予測を代弁する言葉として、次のようなものを挙げておきたい。Cf. 福田洋一『チベット論理学研究 第五巻』東洋文庫、1993年:「もしも以上の推理が正しいとするならば、否定辞の解釈に限られていたはずの二種類の否定の理論は、仏教論理学においては、全ての語・全ての思考がその二種類の否定のいずれかであるということになるだろう。そして、その違いは、それによって定立される事柄、対象となっている事態の違いである、ということになるだろう。」【↑】

(16) Drang nges, 110b5: したがって正理によって自性を否定しているだけのものであって、自性が無いということを証明していないというこ とは中観と論理学(dbu tshad)とのいづれについても正しくないと思われるのである。【↑】


2011-09-11

ツォンカパの空思想における絶対性

1.問題の所在

ツォンカパ・ロサンタクパ(Tsong kha pa Blo bzang grags pa, 1357-1419)の空思想がチベット仏教史に残したその足跡は巨大なものである。彼の思想は今日でもなお最終的なフレームワークとしてゲルク派の僧院において数多くの人々によって学ばれ、忠実に継承されつづけている。

一般に真理を構築するためには、客観的事実を経験可能な限り検証し、その結果得られた真なる命題を構成するという方法がある。しかしこの方法では未来の不可知の事象についての証拠を得ることはできない。それ故より絶対的真理を構築しようとするのならば、絶対者によって認識/言明された命題を真理へと昇華させるという方法が採られるのが一般的である。世界中の多くの宗教・思想・美学がこの方法によって得た命題、つまり神が語った絶対的真理を追究し、それを模倣しつづけてきた。哲学の役割はこうした絶対性を証明するために、神の存在証明やその全知者性の証明をなしてきたことにある。

仏教における空性という絶対的真理に対してのアプローチもまたこれと同じことが歴史的に行われてきたといってよい。それを端的に表わす言葉が「勝義」である。様々な対象のなかから比較抽出することによって得られる「勝義」という概念を利用した「勝義においてaはbである」という言明が、絶対的真理や宗教的真理を語るために繁用されてきたことはいまさら言うまでもない。

しかしながらツォンカパが行なった作業はこれらの手法とはまったく異なったものであったと言わざるを得ない。彼は「否定対象の確認」という発想を導入することによって、空性という命題を構成する以前に、その命題に代入可能なすべての例外的な変数を事前に排除した。この用意周到に準備されたフレームワークの特長は、絶対性を想定しなくても、如何なる変数を代入しても論理的に恒常的に真である無限定な命題を構成できる点にある。歴史的にはこの彼の手法を上回る方法論がチベットには出現しなかったからこそ、彼の思想は現代にいたるまで強烈な影響力を及ぼす絶対的なものとなったと思われる。本稿ではツォンカパが空思想におけるこうした絶対性がどのように取り扱われているかを再考し、その方法論の一端を窺いたいと思う。

2.空性の命題構成法

既によく知られているようにツォンカパの空思想はLRCM以降若干細かい修正を施しながら、最終的には次のような命題で表現されている。(GR: 151a2–6)

空性:否定基体(x)は否定対象(y)ではない。

空性とは、この命題における所証“否定基体(x)が否定対象(y)ではない”と、所証法だけのもの、すなわち“否定対象(y)ではない”との両方を指す。そしてその両者ともが「絶対否定」(med dgag)である。(RG, 24b4-6)否定とは命題でもあり対象でもあるのはチベット仏教のコンテクストにおいては共通に見られる考え方であるが、チャパ・チューキセンゲ(Phywa pa/ Cha ba Chos kyi seng nge, 1109-1169)などが主辞を含んだものは絶対否定ではないとするのに対して、ツォンカパは主辞と賓辞とが組み合わさったものも賓辞のみのものも同じように絶対否定であるとしている点に特徴がある。

またこの“否定基体(x)は否定対象(y)ではない”という形式の命題と“否定基体(x)には否定対象(y)が無い”という形式の存在/非存在を記述する命題とは意味上同一である。存在/非存在を記述する命題はすべて“否定基体(x)は否定対象(y)を欠いたものである”という述定の形式に変換することが出来る。たとえば“(x)には自性が無い”という命題は“(x)は自性によって有るものではない”という命題に変換することができる。この場合両者は同義である。有名なコラムパによる批判にも見られるように、そしてこのような形式の空性以外の他の如何なる空性もないというところにツォンカパの空思想の独自性がある。(DN: 47a1-2)

またこのように記述された空性そのものはツォンカパは“無我”という絶対的な真理として、経量部・唯識派・自立派・帰謬派といったすべての学説によって共通に認められるものであり、すべての学派がこの形式の空性を主張しているとしている。このことは後代のゲルク派の学説綱要書では「仏教のすべての学派が自らを中観派であると標榜している」と表現される。すべての学派に共通した無我である絶対否定の空性というものを想定する時には、まず一切法無我ということから、否定基体(x)には任意の存在者/対象すべてが均質に代入されなければならず、また空性も恒常的に真であり、絶対否定でなければならない。だからこの二つの項は固定された項であると言える。しかるに空性について質的な影響を与え得るような可変要素は(y)しかないことになる。空性を巡るすべての問題は、最終的にはこの否定対象に何が代入されるのかという問題へと還元される。その結果、ツォンカパの空思想においては、通常我々が考えるような「二諦説は中観派の教義であり、三性説は唯識派の教義である」というような紋切り型の図式は成り立たない。彼にとって二諦説や三性説は、唯識派・中観派に共通した均質な空性を記述する際に使用されるパラダイムなのであって(DN: 59a6-b2, 101a5)、空性における「余れるもの」は依他起と円成実の両方であり、それは縁起と空と同義なのである。空性に関する問題のそのすべてがこの“否定対象として何を想定するのか”ということへと還元されることとなる。

3.否定対象の確認と命題の絶対化

こうした否定対象の確認という発想をベースに、ツォンカパは「否定」を「知が否定対象の普遍を直接排除したことで理解されるもの」と定義し、「絶対否定」を「知が否定対象の普遍(dgag bya’i spyi)を直接排除した後に、それ以外の異なる法を投射することのないもの」と定義する。(GR: 82a2-4)このような定義から「否定対象の確認」とは、否定命題を認識する知にその命題の否定対象を排除する行為が行なわれる以前に、否定対象を抽象化したイメージに関する様々な制約を事前に適用しておくということを意味することとなる。

したがって一切法に適用される空性を記述するためには、その命題における任意の項となる否定基体(x)に対して、その賓辞として恒常的に考えられている(y)を想定しなくてはならないことになる。そしてそのためには、すべての衆生が「(x)は(y)である」と思っているその(y)、“すべての衆生に共通して顕現するが決して存在しない否定対象(y)”というものを想定すればよい。そしてそのことをツォンカパは「倶生起の法我執による思念対象」と呼んでいるのである。

そのような否定対象(y)を事前に準備しておけば、任意の存在者(x)を主辞とする命題「(x)は(y)ではない」という絶対否定の空性(z)はいわば自動的に恒常的に真なる命題として成立することになる。何故ならば、それは任意の存在者(x)が命題が常に真なものとなるように準備された否定対象(y)でないことを記述するものであるからである。その作業の結果、たとえば「絶対者Sにとって(x)は(y)ではない」といった絶対者たる当事者のみに限定された解釈を絶対的真理へと昇華させる必要がなくなるのである。つまり任意の基体(x)において絶対的に真である空性というものを構成するためには、賓辞部分に代入される可変項目の(y)を事前に準備さえしておけば、単純に普遍化された命題「(x)は(y)ではない」とだけ記述すればよいことになるのである。

これは通常哲学が課題としているような、現象世界というものの本質を探求しそこに真理を見出すという存在論とは全く異なったものである。通常我々は命題の絶対性を得るために、超越的な絶対者の存在を想定することで命題の絶対性というものを想定しようとする。しかしツォンカパの行なっている作業はまったくこれとは異なり、現象世界そのもののなかにそのよう如何なる条件にもよることのない、無限定に真である絶対性を得ようとしてるのである。ツォンカパは現象世界を我々がどのように捉えているのか、すなわち「倶生起の法我執がどのように対象を思い込んでいるのか」という無明という煩悩の把握形式そのものの内部に絶対性を見出そうとするのである。

ツォンカパが否定対象を正しく確認する際に作業仮説として使用する「一体如何なるものとして成立しているのならば真実成立となるのか」という問い掛けは、倶生起の無明がどのようなものなのかということへの問い掛けなのであり、本来存在に存在論である空思想は、一度“否定対象とは何か”というこの問題へと書き換えられ、最終的には煩悩論へと書き換えられているといってもよいだろう。

4.準備された絶対性と空性理解の目的

ツォンカパはこのような作業を通じて、歴史的に絶対者の超越的認識を模倣し、その知を無限反復することによってのみ得られていた超越的次元における真理の絶対性を、現実世界の延長線上の世界の内部で機能する有限の均質な認識により現実世界と同一次元の内部で真理の絶対性を見出そうとした。そしてその結果、所謂「勝義の世界」と「世俗の世界」というような表現によって表される現実世界とは乖離した理想世界を現実を超越した異次元の領域に想定しなくても命題における無条件な絶対性を見出せる得るものとしたのである。

もしも二つの異なった次元というものを想定するのなら、その限りにおいて両者はお互いに閉じたものとして想定せざるを得ないのであって、たとえその二つの異質な次元を橋渡しするような「随順の勝義」というものを絶対的認識を想定しようとも、別次元に存在する超越的な絶対者にのみ現れている命題は、ある限定をうけた解釈に過ぎないのであって、現実空間と同一次元の内部で成立する絶対的な真理とはなり得ない。そしてそのような解釈を想定する限りにおいては、現実世界の本質を得るためには、常に絶対者の解釈を俟たねばならないことになってしまう。

これに対してツォンカパの考えるようなすべての衆生に如何なる時にも共通に顕現しているが、存在していない否定対象を想定するということは、その否定対象とは逆のものが空であるとするのであれば、空性の絶対性を確立するために絶対者の解釈を俟つ必要がなくなるということなのである。そしてこのような空性を想定することで、空性を理解するためには、ある任意のひとつの法における空性に対する確定を論証因に基づく比量によって導き出しさえすればよいのである。このことはツォンカパの次のような言明からも明らかである。

 ある有法(x1)の実義〔すなわち否定基体(x1)が否定対象(y)ではないこと〕を善く知り修習すれば、一切法の実義〔すなわちすべての否定基体(xn)が否定対象(y)ではないこと〕を修習することになるので、〔否定基体(x1)、否定基体(x2)‥‥否定基体(xn)と〕それぞれ各々の法の法性をそれぞれに修習する必要はない。(GR, 182a6-b1)

ある基体(x1)眼等の内部の法において真実無である〔すなわち眼(x1)が否定対象(y)ではないこと〕ことが量によって成立しているのならば、他の基体に知を向ける時、他者により能証が提示することに依らなくても、自分で証因に基づいて〔その否定基体(x2)が否定対象(y)であるする〕増益を排除することになるのである。(GR, 240b6-a1)

この二つの記述によって述べられているのはある任意の法(x1)における空性を確定した後には、別の任意の空の基体における空性は、既に一度確定した肯定遍充(rjes khyab)や否定遍充(ldog khyab)を利用して、別の空の基体に視点を写して証因との主題所属性(phyogs chos)のみを確定すれば、後はほぼ自動的に確定できるということである。つまり一度任意の基体における空性を推理によって確定ができるのならば、二回目以降は実質的にはそれほど苦労しなくても空性を確定できるということになるのであり、それは同時にすべての法に関して一つ一つ無限に空性を確定しなくてよいということである。

これは空性の命題において空の基体には任意の法が代入される原則があるが、そこに実質的に空の修習をする際に代入される法は一つあればいいということを意味している。そしてそれは同時にその一つの有法における空性を確定すれば、後はその確定され知の対象となった空性を修習して、無明を断じることに専念できるようになるのである。こうしたツォンカパは自らの描く空思想の一回性とその宗教的意義についてまた次のように述べている。

重要なことは自らの無明がどのように増益しているのかという把握形式を批判することを通じて、その逆の立場である自性空たる空性に対する確定を強烈に起こし空性を修習しなければならないことなのであって、我執や無明の把握形式を批判することなく、空性をその一部のみのものとしそれを修習したとしても、二我執に対して何らの損傷を与えることはできないのである。(LRCM, 510a6-b2)

5.まとめ

以上ツォンカパの空思想における絶対性の取り扱いについて多少複雑な側面についても若干考察してきたが、最終的には彼の描いた空思想は極めてシンプルで単純明快なものである。最後に本論の結論をまとめておきたい。

(1)ツォンカパは空思想に否定対象の確認という発想を導入することで、空思想における命題の変数を固定し、さまざまな空思想をすべて否定対象を捉える知の把握形式の問題へと還元した。

(2)その結果彼以前には超越的認識を無限反復することによって別次元の領域にしか得られなかった真理の絶対性を、現実世界の延長線にある単層の領域のなかで、有限の均質な認識によって同一次元内で得られるようになったと思われる。

(3)このような空思想を彼が考えたその最も重要な理由は、空性を理解することが我執を断じるためであるという空性の目的にある。

本稿では紙幅の関係上言及できなかったこのようなツォンカパの手法の背景にある「すべての教えは矛盾がないものであること」というカダム派の伝統的な仏教観や推理における増益の排除方法については稿を改めて別の機会に論じたい。

〈略号〉LRCM: Lam rim chen mo; DN: Drang nges legs bshad snying po; RG: rTsa she Tik chen rigs pa’i rgya mtsho; GR: dBu ma dgongs pa rab gsal. 以上 Zhol ed..

〈キーワード〉ツォンカパ, 絶対否定, 否定対象の確認, 絶対性

2008-09-22