人、そして時の曲芸師

人間は時を生きている。

時間軸は不可逆なものであり、刹那滅な我々はこの世に生を受けたその瞬間から死につつある。

死をどこか遠いところにあると思うひとびとは、明日や明後日や老後のことを考えながら生きるのであるが、実は老後ってのは死ぬ以外ない。

時を生きる我々は、その時を短縮でないし、また同時に時を延長することはできない。何かを急激に実現することもできないし、何かを永遠にのんびりやり続けることもできないのである。

これはちょうど音楽に似ている。ある曲が永遠に続くのならそれは拷問である。またある曲が旋律もなく、一拍もなく終わってしまうのなら、それは曲ではない。

曲芸師はその舞台で花を咲かすために、構成というものを考えるだろう。ここに建築的な思考が要求されることになるのである。

巧妙な曲芸師たちは知っている。その舞台が有限であること、そして有限であるからこそ、美しく、そしてそれに生命力を賭す価値があるということを。

自己の時が短縮も延長もできないように、他者の時もまた短縮も延長もできない。

人が何かを思ったり何かを伝えるためにことばを記すこと、それは短縮も延長もできない複数の時の軸が絡み合っては離れる、ハーモニーであるといえよう。

その調性は時には不協和音であるほうが自然体なのである。時の曲芸師たちは、単純な仕掛けでは食いぶちに困るからである。

2013-03-23

死なない文化

文化は人に受け継がれるものであり、それは死なない。必要な人に伝わり、それが思い出される意思とともに再現される。それは楽譜のように、そして詩集のように眠るだけであろう。

化身認定という文化もまたそのようなものである。残された弟子たちが望めば、先代の再来者は必ずどこかにいるものである。師の入寂から半年が経つ。弟子たちは再来者を望み、それをめぐりまたそれを取り囲む人々の思惑がめぐる。

ことばではなく意味に依拠せよ、人ではなく法に依拠せよ、これはコアなファウンデーションを形どるための基本コンセプトである。

死なない文化、死なないコードというものがあることは確実であるし、人々が徘徊する姿にそのコードに秘められた思いを読み取ることができる。ただその営為は辛い代償を払うことも確かである。

死なない文化は、死なない人々によって支えられる。

2013-01-30

根源を問う人々

さまざまなタイプの人がいる。

通常我々はものごとの根源を問うことをしない。音楽とは何か、芸術とは何か、宗教とは何か、生きるとは何か、人とは何か。そして私とは何か、ということを。

私とは何かという問いかけはさまざまな問いかけのなかでも最も根源的なものである。

この問いかけをする者は恐怖に脅えることとなる。何故ならば我々が思っているほど私というこのあやふやなものは、確実な基盤をもたないからである。

自己に対する洞察力のないものは、ある程度の洞察をしたことでそれでよしとしてしまう。何故ならばそんな楽しくもないことをやってもつまらないし、もっと楽な生き方があるからである。

たとえば誰かを利用したり、誰かをちょろまかしたりすることで、もっと享楽的な在り方もできてしまうのである。時々問題にぶちあたっても、それを見なかったことにすることが、普通の大多数の人のやり方だから、そこで安心感でも得た気になるのである。

しかしそのような安心感を疑う人々もいる。不安であり、そして不信感をいだいているからであろう。そういう我々は、いやいや、それは一体どういうことなのか、そしてどうあるべきなのか、という問いかけをし、その答えを探す、むしろ答えを仮に設定することで観察を繰り返すという在り方をする。

根源を問う者は実は貪欲なのであろう。というのも社会的なタブーやルールを無視してまでそれを裸にしたいからである。哲学者や芸術家、そして根源に触れる者は貪欲であるべきである。事実の微細な所作を看取するためには貪欲でなければならないのである。

おそらく根源を問う人々は、そういう性分なのである。彼らは退屈な人生を嫌う。驚くべき事実を求める性分なのである。

2013-01-07

現成公案と縁起・空

道元禅師の『正法眼蔵』の冒頭に「現成公案」というものがある。そのなかでも有名な一節がこれである。

佛道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に證せらるるなり。萬法に證せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。

「現成公案」は「レディーメイドな問題」という意味である。マルセル・デュシャンの「泉」などもまたこの「現成公案」のひとつである。現象学が取り扱っていたオントロジカルな問題は、この「レディーメイドな問題」ということばによってある程度表現することができる。そして社会問題、政治問題などその殆どはこの「レディーメイドな問題」のひとつである。

存在と自己、そして他者、前世紀の前半を生きた哲学者たちはこうした問題に直面した。それはロマン主義や神秘主義の挫折、欺瞞の灰のなかからの「再生」であったといえよう。近代の日本では、漱石が「自己本位」から「則天去私」へと次第にその思想を深化していったように、人は誰でも進化していく。

『正法眼蔵』の説く「現成公案」というものは、その時々の自己の思想を写してくれる鏡でもある。

研究者として空と縁起の構造分析をしていたころは、真理値というものは生滅する現象の深部に潜む通奏低音のようなものであると考えていた。真理値を得るためにはどのような論理的な構築が必要なのか、それをもとめてツォンカパの空思想を極めてミニマルな「系」で分析しようと試みてきた。

そのなかで私がこれまでやってきてよかったな、と思うことには、「人間的、あまりにも人間的なるもの」とずっと関わってきたということである。たとえば新年の今日から「あまりにも人間的なるもの」と関わらざるを得ない境遇である。新年早々資金調達を頼まれるという運命にある。

本来は実験室の閉じた空間で過ごしたい性分であるが、否応無しに「あまりにも人間的なるもの」と関わることで、真実の所在というものが徐々にではあるが理解できてきたような気がする。

チベットのロジカルな仏教と関わったり、難解な中観思想に関する研究などをしていると、ふとすると縁起や空というものは、この我々の日常とは無縁のような錯覚を起こさせてしまう。ただ、最近それがあまりも無知で田舎者の錯覚に過ぎないということに気付いてきた。

縁起や空を現観するというのは、感官知で知覚することではない。それは心で流れ行く現象を捉えることである。「現成公案」を知覚すること、それはすべてさまざまな原因から生じている、という感覚である。この感覚が実は離辺の「中観」なのである。

レディーメイドな問題を知覚し、その空性を理解することは、最もシンプルな形での世界に対する自己の視座である。チベットの仏教を学びはじめたころ、それがあまりにも我々が既成概念にあてはめて理解していた我が国の仏典とはかけ離れている差異が目立っていたが、最近そこしはその差異だけではなく、その多くのことばに見られる深い洞察と先人の慈悲を感じ取ることができるようになってきた。

とりあえずよくわかないうちにまたもや新年になったが、きっとこれからだと思う。確かに言えるのは、そのうち22世紀になるってことだ。

2013-01-01

永い沈黙との対話の時

永い沈黙との対話の時がやってきた。

昨日8月13日午前1:30、師、ケンスル・リンポチェ・テンパ・ゲルツェン師が亡くなられた。現在はトゥクダムにまだいらっしゃるようだが、これからインドに向けて出発している間にどうなるのかよく分からない。

師と出会いチベット仏教というものが如何なるものか、そのすべてを知りたいと思った。そこにあったのは、日本の仏教にもそして、チベット仏教の研究論文の世界にもない、生きた仏教の立ち姿であった。

同時にこのチベット仏教を代表する歩く経典ともいう御方が、当時地下鉄サリン事件で研究所のなかで沈黙を強いられていることに我が国の社会の稚拙さと同時に中途半端に「救い」を説く人たちに対して憤りを感じた。師は仏教に生きたが、師が研究者たちに提供したものは、あくまでも単なる「情報」として扱われていた。この人物を通して生きているブッダの言葉を、この人物が語りたいように語るのをみんなで聞いてみたい、これが最初のきっかけであった。

研究職を辞退して、最初に師がインドに帰国する時に、「ジェ・リンポチェがなくなってもケードゥジェは師のことを思い出せば、その教えはいつでも聴こえてきたらしいので、心配しなくてもいいよ」とおっしゃってくれた。その時は、決してそうならないようにと抵抗し、その後会をつくり、全く興味のなかったダライ・ラマ法王に嘆願し、あの人物は必ず日本に必要なので日本に返して欲しいとお願いをした。

師は自分の師を置いてチベットから亡命した。その悲しい思いを何十年ももち続け、自分の師の代わりに怖畏金剛の籠行を行った。行の後師は「少し仏さまたちが近くなったような感じがします」と控えめにおっしゃった。

行が終わってダライ・ラマ法王の説得の力もあり、日本に来てくれることになった。そこからほぼ毎日さまざまな教えを教わった。そして私は通訳、付き人、雑用係として、この偉大な師と説法をしてあちこち回った。師を乗せて走るために車も買ったし免許もとった。疲れた時には回転寿司でマグロを沢山たべた。健康ランドに行って露天風呂に入るものもお好きだった。

師はいい服を着たり、いい家に住むことより、おいしいものを食べることが一番大事だと常におっしゃっていた。特に甘いお菓子が大好きで、時にはお菓子の食べ過ぎで食事は少量しか摂られないこともあった。アメリカにダライ・ラマ法王の兄に招聘されて、日本にはもう来ないかなと思った時にも、師はアメリカの御菓子も料理も全然美味しくないので10日ほど経ってすぐに帰国したいのでどうしようかと電話がかかってきた。日本のお菓子と料理に感謝した瞬間だった。

師の話には常にユーモアがあり、冗談が大好きだった。「チベット仏教で一番大事なものは何だと思いますか。それはバターですよ。」といったなぞなぞも沢山あった。おかげで我が家の夕食は常に仏のことばとその逸話、そして落語のようなオチで笑いが絶えなくなった。そんな楽しい夕食は残念ながらもう味わえない。

師は毎日我々が死んでいること、煩悩という病によって冒されていること、我々には眼にみえないが確実に存在するものへの視座とその価値を教えてくれた。その教えは現代哲学や陳腐な芸術を圧倒的に超えた真実であり、常に変わらない釈尊からのメッセージであった。

師のことばはあまりにも情報量が多く、そして楽しく愉快であるので、すべての人に聞いて欲しいと思った。何度も師の話の聞き書きを本にしようとお願いしたが、師は決してそれを望まなかった。何故ならば既に釈尊のことばは経典に説かれているし、そしてその解釈も我々のようなものがするべきではないからであった。つまらない本を沢山作っても意味はなく、ちゃんと仏典を翻訳すること、それだけを師は望んだ。

師はある時アティシャがチベットに行くことで寿命は縮まるが、観音菩薩の化身である、在家のドムトンという弟子に出会い、チベットをあちこち説法してまわり、多大なる功績を残すというターラー菩薩の予言の話をしてくれた。この話をいまでも強く思いだす。

ダライ・ラマ法王の招聘や数多くの事業によって私は師の寿命を縮めたのだろうか。そして何かを師とともに日本に残すことができたのだろうか。自分はドムトンのような観音菩薩の化身といわれるのには程遠い人間であるが、師が教えてくれた逸話に隠されたこの重い課題をいまだ果たせたとは思えない。いま思うのは、すくなくとも師を乗せて移動する時に、もうすこし安全運転をしたらよかったな、後部座席で唱えていたお経は無事に着きますようにと祈っていたのかなとかいろいろな事が頭をよぎる。

釈尊が涅槃に入られたのは、弟子が怠慢で、もう教えることがなくなったからだと師は教えてくれた。師が日本で説法をしてくれなくなったのは、我々が怠慢であまりにも幼稚だからなのだろうか。しかしただひとつ言えることは、私が師と出会うそのもっと昔から、この地上には道は既に示されてあるということである。

釈尊の声を我々はいま聴くことはできないが、そして私の師も永い沈黙に入った。これからその沈黙との対話を否応無しにすべき時に来たことだけは確実である。

2012-08-14